伊藤寿男 『月刊テーミス』編集主幹


 

■ 異色の人材を集め話題のCM連発へ

企業の宣伝や広告に関心のある企業人や大学生に最も注目されているのはサントリーである。テレビや活字メディアに登場するスマートでおしゃれなCMは、若い世代から熟年まで魅了している。

前身の寿屋を創業した鳥井信治郎氏も、早くから宣伝に力を入れていたことは、検閲が厳しかった戦前、赤玉ポートワインのポスターに半裸の美女を登場させたことでもわかる。しかし寿屋からサントリーに社名を変更し、念願のビール業に進出して同族企業として大成長させたのは、なんといっても佐治敬三氏である。

佐治氏は経営者としても高く評価されるが、一方で文化人としての活躍も目覚ましかった。ユニークな宣伝作戦を牽引した開高健、山口瞳、柳原良平各氏を発掘し、彼らの才能を思う存分発揮させたのも氏の器量とバックアップによるものである。

私は佐治氏から開高氏を入社させた経緯を直接聞いている。「鳥井家に長く出入りしている職人が『娘が大学を卒業するが御社に入社させてくれませんか』と言ってきた。そこで娘を入社させたが数年後、彼女が『今度、学生結婚した夫が大学を卒業する。ついては私が辞める代わりに彼を入社させていただけませんか』と言ってきた。そこで開高に会ったが一目で何かやりそうな男だったので即決で入社させた」と言うのである。

鳥井信治郎氏の次男として生まれた佐治氏は、母方の縁者と養子縁組し佐治姓となったが、実父母の下で育てられ進取の精神や好奇心を叩き込まれた。鳥井氏は寿屋を興し日本発のウイスキーやワインに挑戦したが、創業と同時に宣伝の重要性を認識し、全国の酒屋に拡販方法を教えたり洒落たエッセイを載せた月刊誌を送っていた。

静岡県の駿河湾に面した人口3万人弱の町で、私の実家は祖父が始めた酒屋だった。戦後、活字に飢えていた私は寿屋から送られてくる前記の雑誌が待ち遠しく、着くとすぐ読んだものである。

そんな縁もあって、佐治氏とは何遍も会ったが、快活でエネルギッシュな言動に刺激を受けたものである。

■ サントリーホール初日に心憎いパフォーマンス

佐治氏が並みの経営者の域を超えてリーダーシップを発揮したことは、単に経営者としてビール事業や栄養補助食品事業などの新分野に挑戦しただけでなく、日本文化に大きな貢献をしたことである。

ビールは既成3社に挑んだだけに最初は苦労の連続だったが、新製品発売の際には自ら宣伝マンとなって街頭に立つこともあった。私はその夜、慰労を兼ねて料亭で会ったが、氏のビールが描かれたネクタイを褒めたところ、「君にやろう。これを締めればもうサントリーの宣伝マンだ」と臨時社員に任命されてしまった。

こんな自社製品をアピールする行動に逡巡はなかった。かつてサントリーホールの前に直営の高級フレンチがあった。ある夜、コンサート終了後、妻と食事をしていると、佐治氏が入ってくるや「今夜はご来店いただきありがとうございました」とすべてのテーブルを回ったのである。

国内外のユニークな作品を展示するサントリー美術館は、多くの美術館の中で存在感を高めてきた。これも佐治氏の決断によるものだった。

サントリーホールのオープンの日に見せた心憎いパフォーマンスには圧倒された。企業の晴れがましい記念日や新製品発表会では、社長が得々とスピーチするが常である。ところが佐治氏は、2階のパイプオルガンの前に進むと、前を向いたまま手を後ろに伸ばして「キー」を押しただけである。

1階で待機していたオーケストラが、一斉に「キー」に和した。それを見た佐治氏はニヤリと笑うと黙って去って行ったのだ。

まさにおしゃれでひねりの効いたCMを見せつけられたようなオープンだった。さらに佐治氏は続いて開かれたパーティではビール片手に参会者の間を回っていた。ところが記念の「第九」の合唱が始まると、合唱団の中で歌っているではないか! 私など一杯のビールでいい気持ちになり観客席でうとうとしていたというのに、なんとタフなことか! 驚いてしまった。

■ 寿屋のウイスキーがハワイの特殊潜航艇に

佐治氏は社業を成長させ、文化事業にも貢献したほかに、地元・大阪が地盤沈下したときには大阪商工会議所会頭として復活に尽力していた。街頭パレードにたすき掛けで参加したこともあった。

本業関連では、サントリー生物有機科学研究所を設立して若い技術者の育成に努めた。また後にACジャパンとなる公共広告機構の発起人でもあった。そんな八面六臂の活躍をするなかで、氏が東北地方を「熊襲の地」と呼んだことは彼らの反発を招き不買運動に発展したこともあった。

しかし佐治氏の根底にあったのは、本業や大阪を越え日本人の生活を豊かにしたいという思いだったと見る。

サントリーがビール業界に参入したり朝日麦酒の新製品が人気を得るまでは麒麟麦酒がよく飲まれていた。私の父が料理屋から「麒麟をくれ」と言われたとき「他社のビールもおいしくなりましたよ」と説得していたという話をしたとき、佐治氏はやっと苦戦から上昇し始めたころだったがとても喜んでいた。

また私がアメリカに取材で行ったとき、ペンタゴンの資料室で、太平洋戦争開戦の日、ハワイに潜入した10隻の特殊潜航艇のうち1隻が砂浜に乗り上げ捕獲された写真を発見した。その中に寿屋のウイスキー(通称だるま)があったのだ。恐らく暗い海中で、たった一人、寒さと緊張に耐えながら敵艦を目指す乗組員にとって唯一の暖を取り勇気を振り絞るものだったに違いない。

その写真を購入して帰国し、佐治氏に見せて私の想像も伝えたところ、氏は「その通りだ」と大きく頷き目を潤ませて沈黙を続けたのだった。いつもの快活で剛毅な佐治氏の姿ではなかった(ちなみに写真は山梨のウイスキー記念館に展示されている)。

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